8月24日

・8月24日。火曜日。午前中から論文のコピーのため図書館へ。膨大な量になった。論文を読んでいると、おやっと思うことがある。出だしから「歴史上、重要な作家である○○は」みたいな価値判断が入っているのだ。本当に重要ならば、わざわざ言わなくてよいということでもあるし、そんな何の疑いもない巷の噂的な判断を持ち込んでいいのかということでもある。ふだんは真面目そうにしている人が、こういう文章を書いていたりする。
でもまあ、気持ちはわかる。自分の研究対象がいかに素晴らしいものであるかをアピールしたい、そういう邪な気持ちを捨て去ることは難しいのかもしれない。というか、無理なのかもしれない。しょせん文字だとはいえ、自分の体から排出したものには変わりはない。類いまれな排出物をこしらえたとき、誰かに見てほしいと思うのは、仕方のないことだ。だが、これは行き過ぎると、虚言癖になるリスクを抱えている。昨日、5メートルのうんこしたんだぜ、と。
歴史的事実として、本当に5メートルだったかどうかはあまり問題ではない。むしろ重要なのは、5メートルという数字が、当人にとって自分を満足させるためのリアルな数値だった、という悲しい事実である。だからそういう人を嘘つき呼ばわりしてはいけない。5メートルは、6メートルになり、6メートルは7メートルとなるだけだ。まあ、すでに5メートルの時点で、トイレには流れないのではないか、というツッコミはさておくとして。
いや、流れない(流さない)ことが大事なのかもしれない。排泄物をトイレに流したくない人たち。排泄物備蓄主義者。世の中にはそういう人が確実に存在する。迷惑に思うのは、次にトイレに入った人たちだ。うわっ、と一瞬たじろいで、大人の対応で涼しい顔をして「水に流す」ことになる。うっかり流すの忘れたんだろう、くらいな思いやりで。これに似た感慨を、人文系の学術論文を読んでいるときにも感じることが、たびたびある。残念なことだが。

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夜は新宿にて、岸田國士の二作品を見る。「世帯休業」、「運を主義にまかす男」。