8月23日

8月23日。月曜日。どうでもいいことだが、人の死というのは予想している以上に速報性がない。もちろん、誰かが死んだというのは、ちょっとしたニュースではある。梨本勝が恐縮して死んだことも、シュリンゲンジーフが49才の若さで死んだことも、今日明日あたりは、ちょっとした話題になっているはずだ。だが、「梨本やシュリンゲンジーフが死んだことが、自分といかなる関係があるのか?」と冷静に考えてみると、ちょっとわからなかったりする。おそらく、あまり関係ない。
自分自身と関係がないことは、すぐに悲しめたりする(悲しんだふりができる)と、そういうことなのだろうか? つい先日死んだ劇作家の訃報が速報されたのは、たしか夜のことだったが、翌日の新聞には追悼のコメントが掲載されていた。どういうことかって? すでに追悼文は書かれていたのである。その人が死ぬずっと前から。それが数ヶ月前なのか、数年前なのかはわからない。だが、翌朝に記事(←死んだという事実だけではない)が出たというのは、そういうことだ。生前に書かれた追悼文。訃報占拠。追悼殺人。
だが、この話は活字メディアの苦しまぎれの知恵袋というよりも、死んだ人に対するコメントの本質を物語っている気がする。つまり、大事な人の死というのは、当人が死ぬずっと前から「悲しむ」ことができるということだ。その人が失われた世界では、なにが失われるのかを適切に考量することができる。そうなると、もはや悲しむ(残念がる)べきことは、ほとんどない。むしろ、ぽっかりあいた穴に何が入るのか、「楽しみ」でさえある。ちょっと不謹慎だが。
逆に、「なんだかこれはたいへんそうだ」くらいの、自分でもなんだかよくわかってない状況にあると、とりあえず悲しんでおいたほうがいいんじゃないか、みたいな話になる。有り体にいえば、わかったフリだと思う。防戦一方の泥仕合(自愛?慈愛?)。うむ。正しいことは正しい。少なくとも、人の死は悲しむべきだ、という規範みたいのがあるから。涙の数だけ強くなれるよ。明日はくるよどんなときも。どんなときも、ぼくがぼくであるために。はい。もう勝手にしてください。
というわけでわたしは、人の死を敵の首を取ったみたいに自分の手柄にしようとする人が、あまり好きではない。「○○死んだらしいね」「そうなのか、それで用件は?」「用件?」「まさか、○○が死んだことを言うためだけに電話してきたのか?」「ああ」 とまあ、こんな感じになる。もちろんここには誇張が少しばかり含まれている。わたしは極力電話にでない。振動さえならないようにしてあるし、何よりもめんどくさい。そっちこそ防戦一方ではないかと言われれば、はい、その通りです。
人は早かれ遅かれ死ぬのだから、誰かが死んだとわざわざ教えてくれるなら、それによってどのような「いいこと」があるのかくらい教えてほしい、とかんたんに言うならそういうことになる。もちろん、自分にそういう癖がなかったわけではない。高1でPHSを買ってもらってすぐ、わたしは当時仲の良かった女友達に(なぜか自慢げに)メール(←全部カナで50文字くらいだったはず)を送ったことは今でも光景を覚えている。「スピードカイサンラシイ」と。うむ。若かったと思う。SPEEDもおれも。

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今日は昼からKさんの呼び出しを受け、ラボに馳せ参じる。テクニカル・トラブル(?)も無事解消したので、図書館に少しばかり寄って、帰宅する。ちまちまと進まない筆を進める。