7月30日

・7月30日。金曜日。雨のなか、気張って午前中から映画を見にいく。「レフェリー 知られざるサッカーの舞台裏 Les arbitres」(2009)というサッカー審判のドキュメンタリーである(取材対象はEURO2008の予選から決勝まで)。のっけから、審判の口元のピンマイクを通過する音声が大音量で流され(ボールを蹴る音は蚊の羽音のよう。聴こえるのは、審判どうしのコミュニケーションや審判に対する罵声である)、呆気にとられる。
(ちなみに、この映画でいちばんスポットライトが当てられている英国の審判は、この映画のなかでは苦杯を飲むことになるのだが、5月のCLでも7月のワールドカップでも決勝の笛を吹いた審判である。まあ、いずれにしても英国のクラブチーム/代表チームが決勝進出を逃しているからこそ、そういうことになっている面もなくはないのだが……)。
なにせ、そこで行われているゲームは、普段見ているフットボールの試合とは、まったく別のものなのである。エースが誰だとか、パスワークが素晴らしいとか、ゴールが美しいとか、そういうことは一切関係ない。重要なのは、ジャッジが「適切」だったかどうか(←必ずしも「機械的に正確である」ことを意味しない)、そしてゲームが適切にコントロールされていたかどうか、である。
凡庸を承知でいえば、そこでのゲームは「見たことのない生き物」のようで、しかも11人対11人ではなく、監督を含むベンチはもちろん、観客の歓声(というか罵声)も加わる。場合によっては対戦チームの「国家感情」(←そのようなものがあるとして。具体的にはポーランドの首相までもが殺意を仄めかしたというエピソードが挟まれる)や審判どうしのコミュニケーションさえもが、含まれる。
いちばん驚かされるのは、「審判は絶対にミスを認めてはならない」という神話の崩壊である。ある試合の直後、主審が選手一人一人に「ミスもあった」「俺らは完璧じゃない」「許してくれ」と駆け寄るシーンは、衝撃的だ。ミスが許されないと同時に、ミスが約束されている存在の受苦。レセプションなどの楽しい場面もあるにはあるが、審判たちの気苦労は計り知れない。本当に。Youtubeに殺害予告までされちゃうわけだし(ちなみにこの映画の英語圏でのタイトルはKill the Referee)。
先のワールドカップの準決勝で西村さんが笛を吹いていたときに、解説の山本昌邦がしきりに(選手のプレーではなく)ジャッジに対してコメントしていたのは、この映画を見ると合点がいく。まあ、あの試合見ているあいだはずっと、なんでこのおっさん審判のジャッジの話ばっかりしてんだ? ちゃんと解説しろよ、と思ったりもしたけれど、あれはただのナショナリスティックな感情ではなく、列記としたパフォーマティヴな行為(もちろん既存のサッカー言説に対する)だったのだ。
つまり、試合後に審判のジャッジを検証する(←誤審を非難するためではなく、拍手を送るべきジャッジを再確認するために)ことはふつうない。徹底した選手中心主義といってよい。やれ本田がどうした、やれシャビがどうしたと。しかし、この映画を見ると、決勝第4審判として入った西村さんにさえ「再確認」とともに敬意を評すべきだと思われる(もっと言えば、なにも日本人審判に限る必要は何もない)ほどに、ふだんの見方が相対化される思いになる。いい映画だった。
http://www.webdice.jp/referee/
その後、渋谷にきたついでにBunkamura(相変わらず、ださい名称だ)にて、ブリューゲルの版画展を見てから、限界すれすれまで伸びた髪を切りにいく。音楽批評の人たちが使う市民に開かれたことばは、本当に見習わなければならないとつねづね思う(渡辺裕にせよ、岡田暁生にせよ、増田聡にせよ)。増田の佐藤良明批判(ニュースステーション出演時の話)は本当に的確で、あのポップでクレバーな佐藤先生さえ陥ってしまう問題は、演劇畑の人間は本当に自分の話にように聞かねばならない。