8月5・6日

・8月5日。木曜日。原稿は2/3まできた。あと少しだ。
演劇について少し仕事をしているせいか、最近「音楽史」(←ショパンとかではなくて、日本の大衆音楽ですが)について演劇の状況と比べて考えることが、多い。たとえば、現代口語演劇。基本的には1930年代の岸田國士と同じなのだけど、とにかく俳優の位置がむずかしい。名優気取りのベタな演技に対する批判(これは日本だけの話ではありませんが)が根っこにあるので、「上手な俳優」の定義が非常にむずかしいんですね。定義ができたとしても、それは旧来的な「名優」ではない。
という状況が、70年代以降の「演劇=お手軽な表現手段」という幻想とか、80年代以降のパフォーマンスの流行や「笑い」の重要視とか、トレンディ・ドラマの「わかりやすい」芝居とか、演技に対する考え方があまり規範的ではなくなっていくなかで、だんだん醸成されてくる。逆から言えば、専門教育が必要な「技術」だと考えられていた演技が、「そんなかたくるしいこと言わなくてよくね?」となって相対化されていく。
そういうわけで、今年ついに「俳優がロボットになる」というアナクロニズムを来月、名古屋にいく人は経験するわけですが、この「演技の軽視」の系譜は、そっくりそのまま「歌唱力の軽視」の系譜として、連綿と今日までつづいてきていて、おや、そう言えば、初音ミクなんてのが出てきたのが、ちょうど平田オリザが阪大で「ロボット演劇」に着手しはじめたのと同時期、というか技術ベースの話なので、「一緒だ!すごい!」というのは倒錯なわけですが、見取り図としてはとてもわかりやすい。
ただ、現象的に思うのは、ロボットになる「手前の人たち」(←そういう意味で、木村覚がPerfumeについて書いていたことは、演劇・ダンス的にも鋭い指摘だった)が跳梁跋扈していて、それが大衆の「美学」となっているということである。まあ、ざっくり言うと、歌の下手な人間がなぜか「売れて」、芝居の下手な人間がやはり「売れる」ということだ。いや、売れる/売れないというのは二次的な問題であって、本当に問題なのは、「うまい」人が正当に評価されなくなる、ということが起こることである。(つづく)

・8月6日。金曜日。先日行われた面接結果の通知は、内定。正式決定はまだ先ですが、いちおう、ご報告まで。
夜はお茶の水にて解体社のアトリエ公演を見る。そして帰宅して、録画しておいた「サマーウォーズ」(2009)を見たけれど、この落差は。いや、落差はさて措くとしても、この40、50のおっさんたちが何をつくってんだ、という。基本的には、秋元康が「セクハラしてもいい女の子」をたくさん集めて抱かせる幻想に、近いものがあるのかもしれない。年はとりたくないものだ。