8月9・10日

・8月9日。月曜日。午前中、30枚の原稿を書き上げる。30枚に言いたいことをまとめるというのは、むずかしい。しかし、30枚くらいの文章で、最後のオチが自分でもわからないまま書いていると、本当に時間がかかってしまうのだが、着地点が見つかったときは面白い。しかも内容的にもそういう文章だったので、なかなか。ただ、ウケがどんなもんかは未知数である。叩かれることを覚悟で書いてみた。

・8月10日。火曜日。昨日は一日リフレッシュという感じだったので、今日は少しずつ新しい仕事にとりかかることに。「書く」仕事と「訳す」仕事を同時並行でやることはなんの苦でもないが、「書く」仕事と「書く」仕事を並行でやると、ものすごい散漫になる。屁理屈かもしれないが、「訳す」仕事と「訳す」仕事でも、だめな気はする。そういうものなのだろうか。こればかりはわからない。
昨日の夜から、本人の同意なしでの臓器移植が初施行されるというニュースだが、もっぱら関心は「失敗してはならない」という雰囲気を醸し出すことだけであって、もはや倫理的にどうとかそういう議論がなされる空気はない。だが、喜ばしいという空気もなかったのが救いである。交通事故にあった20代の男性の5種類の臓器が、移植を待っている全国の患者の元に未明から早朝に届けられたとのことだった。
その順番はどうやって決めたのか?ということはさておき、脳死とはいえ、心臓の動いている生身のからだから「生き生きとした臓器」を取り出す医者も、それを「人の役にたつなら」と容認/黙認する家族も、要は「本当なら殺人なんですけど、そこを法的に殺人じゃないってことにしますので」ということによって、新しい行動に移すことができた人たちである。善悪は別としても、その判断がもたらす迷いは計り知れない。
倫理学の思考実験にこういうの(正確には覚えてないが)がある。ひとりの人間から、10の臓器を取り出せば、10人の命が助かるが、その当人は死ぬ。もし移植をしなければ、10人は死ぬ。「1人を殺して10人を助ける」か、それとも「1人を殺さずに10人の命を助けない」か。功利主義的に考えるなら前者だが、「人を殺してはならない」が定言命法なら、やっぱり後者だということになる。誇張して言えば、この実験が現実のものになったのである。
この問題に関しては、「個人的な意見では……」とならざるをえない(それが問題なのだが)。どちらにも言い分があるからだ。だが、副次的なことを言えば、臓器は国内で賄え、ということなのだね、この法律は。いつの間にか、国境に線が引かれている。アメリカには「外国人枠」がある(たしか5%、スポーツみたいだが……)。これを日本人が独占していて、どうなのよという話が出たことがあった。
なので結局、いつものように「多勢」に流れたというだけなら、死生観がどうとか、宗教がどうとか言ってもあんまり意味がないわけだが、しかしそれにしても、事情が国境をこえているにもかかわらず、国内での理由付けが国内的であるというのは、ずるい。もしも「5%を外に開放せよ」と外圧がかかったら従うのだとは思うけど、カトリックの国々はそんな吝嗇なふるまいはしないのかもしれない。