8月21・22日

・8月21日。土曜日。本当はこの週末だけ小旅行でも行こうかと思っていたのだが、あまりに執筆が進んでいないので断念。愛知のラ・リボットと、京都で明日までやっている「生存のエシックス」展にも行きたかったのだが、関西方面は来月に回すことにした。長野→(愛知)→滋賀→京都→兵庫→愛知と1週間くらい、遊びにいく予定である。ひと夏の経験。こうして楽しいことでも考えないと、筆が重い。
興南の優勝は、沖縄県ということでちょっとばかり政治的なニュアンスを帯びてしまった。かんばろうKOBE的な。結構なことだと思う。沖縄関係者にとっては。しかし46都道府県の民に関しては、事情がちがう。沖縄らしいといえばらしいのだが、島袋の「力みのなさ」は、あまりに高校野球のイメージからかけ離れたものだったのがなかなか衝撃的で、ピッチングを見る限り、「あんまり難いこというのはやめましょうよ」という感じだった。
そう言われてみれば、興南の島袋という逸材は、三振(←アウトローに決まるストレートは素晴らしかった)と内野ゴロ(←と思ったら突然変化球投手になったりする)で切ってとるタイプの投手だったのであり、外野にはあまりボールが飛んでいくことがなかった。つまり、左翼(レフト)にも右翼(ライト)にもあまり仕事をさせなかったというわけだ。うむ。これが、あるべき沖縄問題への態度なのかもしれない。

・8月22日。日曜日。昨日から家の外が祭りで賑やかである(←もちろん「賑やか」という表現は大人の対応をしているつもり)。左様。8月の旅行を断念して終日在宅を心に決めたものの、思いのほか作業は進んでいない。無論。予想はしていたことではある。風邪でも引けば、もう少し焦るのだろうけど、残念なことに、すこぶる体調がいい。エアコン部屋監禁生活で、風通しは最悪だが。
もちろん祭とフェスティバルは違うものだが、ここのところのフェスティバル・ブームにはなんとかならぬものかと思う(あ、演劇のはなしである)。毎年5・6月に静岡で開催される「Shizuoka春の芸術祭」はもう終わったが、昨日あたりから愛知で「あいちトリエンナーレ」がはじまり、それが終わらぬうちに、10月に都内で「フェスティバル/トーキョー10」があるし、11月には京都で「京都国際舞台芸術祭2010」なる催しがある。
(*美術系では、昨年の「越後妻有トリエンナーレ」、今年の「瀬戸内国際芸術祭」や来年の「横浜トリエンナーレ2011」もある。)
しかし、これだけあちこちでフェスティバルをやられると、正直だいぶめんどくさくなって、「いいかなースルーで」と思ってしまう。いや、きっとなかには面白い企画がたくさんあるのだと思うし、旅行の口実になると割り切って観客となる人もいるのだと思う。なによりやっている人たちは真剣である。海外からいろいろなアーティストを招待したり、国内で新たな人材を発掘する労力は計り知れない。本当に、ごくろうさまです。
だが、一歩その輪から出ると、その情熱は反比例して冷めた感情を引き起こす。「真面目な顔してなにやってんだ、あいつら?」と。まさに今日、うちの階下で行われていた阿波踊りも、そうだった。楽しそうに踊っている人たちは、半径5メートル以上離れたところにいる人間にとって、騒音以外の何者でもなかった。だからこそ、閉会のあいさつの最後には「住民の方々、ご迷惑をおかけして……」という台詞が聞こえたのである。それがなかったら灰皿を投げているところだ。
しかし集団とは本来、そういうものである。規模に応じて、恋人だったり、町内会だったり、部活だったり、サポーターだったり、信徒だったり、民族だったりする。その外側にいる人間は、「なにやってんだ、あいつら?」という冷ややかな目線になる。だが、芸術祭を推進している人たちには、そういう意識がない(ように見える)。「わたしたちがなにか間違ったことをやっておりますでしょうか?」くらいに見える。「面倒くささ」の理由はそこにある。
「自分が正しいと思っていること」を人に押し付けようとする人ほど、面倒くさい人はいない。中学校の頃、やたらと自分の好きな音楽CDを貸し付けてくる友人(複数)がいた。だが、借りたCDはおそらく一度も聴かずに返した。あまりに心の狭い中学生だったことは言うまでもない。一回くらい聴けばいいのに。たかが1時間くらいだろう。だが、そういう問題ではないのだ。それが「よかった」場合に、「だろ?」と得意顔をする友人とは、友人になれないと思ったまでだ。
繰り返す。わたしは心の狭い中学生だった。そして悲しいことに、それはいまでもあまり変わっていない。フェスティバルをやっていること自体に、寸分たりとも疑いの目を向けていないフェスティバルにいくことは、ものすごく気がひける。もちろん、行けばそこそこ楽しいのだろう。ディズニーランドみたいに完全に外界から隔絶されているわけではないのだし。あくまで観光の目玉と割り切ればこそ。割り切れないことを扱うのがアートなのだとしても。