6月12・13・14日

・6月12日。日曜日。12時に起きる。午後からG大学で事務作業の手伝い。夕刻から吉祥寺にて「お見合い」をする。驚くなかれ、Oさんの仲介である。Oさんという人は、人と人とを引き離すことを趣味としている非人間的な方でいらっしゃる(「俺は女という生き物に興味はない」ともよく言っている)ので、この縁談がうまくいったのを見て、激しく後悔していた。縁談相手のTさんは、とてもおおらかな方であった。ハモニカ横丁でホッピーを3杯ほど、場所を西荻に移動してホッピーを2杯ほど、場所を武蔵境に移してビールを2杯ほど。2時頃、雨のなか歩いて三鷹まで帰る。

・6月13日。月曜日。最近至るところで「入っていない団体からお誘いを受け、かつ、その団体に入っていないのはおかしい的なことを言われる場面」に遭遇する(ここ1か月で3度も言われた)。おそらく、その辺の人以上に「集団に帰属する」ことが嫌い(?)であるらしい。というか、ある集団に帰属するということは、その集団と何かをともに「信じる」ことができなければ成立しない。それができないのである。つまり、自信がないわけだな。ははは。これを回避する最善の方法は自分が集団の創設者となることだが、それも完璧ではない。「自分の信じていること」が変わるかもしれないからである。しかし集団の方針は個人の気まぐれでそう簡単には変わらない。とまあ、以上はすごく当然の話だと思うのだが、結果的に集団への帰属という選択肢をとる人が結構いると思うのである。『ちはやふる』最新刊を買って読む。

・6月14日。火曜日。某大学で開催された「震災シンポ」に出る。こうした企画は至るところで開催されている(言わば、躁状態である)が、その話題性からか大学の動員力からか、盛況であった。しかし、少なくとも私にとっては、「芸術には力がある」というふざけた結論は、まさしくスクリーンに映された「ぐちゃぐちゃ」な風景のようであった。制度論的には「まとも」であっても、結局その力の内実が問われなければ、作品自体について語られなければ、まるで空疎な議論となってしまう。そういう空疎な結論を導くためのシンポだったとは考えたくはないが、彼らの「芸術が必要だ」という信念はどこからくるのだろう…? 象徴的だったのは、2時間半のシンポで一度として原発問題に触れることがなかったということである。このめまいがするような「遠近感覚」、まさしく会場全体が「地震酔い」を経験したようなシンポジウムであった…などとシンポジウム自体が批評される機会がないというのも、問題ではある。もっとも、こうした問題提起自体がきわけて平凡な制度論批判の方法ではあるが、しかしだからといって「芸術の力」などと美辞麗句を無神経に使って良い、という理由にはならない。